その答えは、現在「癌」と闘病中の実母との40数年に及ぶ関係性にあるのです。
母を半狂乱にさせた突然の父の死


「あっ、裕子が初めて笑った!」


「あっ、裕子が初めて笑った!」
愛知県の田舎町で私が生まれて生後一ヶ月、初めて見せた私の笑顔に祖母と母が歓喜の声を上げていたその時、家の電話が突然けたたましく鳴りました。
「お父さんがトラックごと、崖から落ちて・・・」
電話の主が伝えてくれたのは、無口で真面目で動物好きのトラック運転手だった父の事故死の悲報でした。
生まれたばかりの私と共に、新しく始まる家族の生活に夢と希望をもっていた母にとって、その事実は到底受け入れられるものではなく、あまりのショックに半狂乱になった母は、しばらくは泣きながらリンゴの苗を植えていたそうです。
自立を覚悟して旅立った母との約束

「東京に行ってくる」
父の死のショックから立ち直り、自立を覚悟した母は、そう言い残し、幼い私を親戚に預けて、単身東京に旅立って行きました。
普通の主婦だった母が、生活費を稼ぐために選んだのは水商売の世界でした。
「5年後に必ず迎えに戻るからね」
後戻りが許されない状況の中、再び我が子との生活を実現させるため、そう約束してくれた母は、慣れない仕事を懸命にこなして必死にお金を貯め、約束通りに私が5歳になった頃に引き取りに来てくれました。
心を石にした私を救った母の言葉

久しぶりに始まった母との東京での生活でしたが、故郷を偲んで寂しい気分になることもありました。母を慕って寄り集まってくる男達にも、とても心を開くことは出来ませんでした。
そんな私を心配して、おいしいモノや洋服を沢山買ってくれてた母でしたが、次第に心を閉ざし、石のようになっていった私を救ってくれたのは、母の言葉でした。
「裕子のお父さんは天国で神様になって、いつもあなたを守ってくれてるんだよ」
その言葉を素直に信じた私は、それ以来、寂しさを感じることはありませんでした。
栄養士になるきっかけは添加物の害

私が栄養士になることを決意したきっかけは、高校時代の家庭科の授業でした。「食品添加物の害について」という研究テーマで資料を作っていく作業で、私の研究はどんどんエスカレートしていき、「もうやめなさい」と、先生に止められるほど分厚い資料になっていました。
自分がいかに多くの食品添加物を摂取していたのか、その添加物がいかに体に害を与えるかということを初めて知り、愕然としたのです。当時、母は自分の店(小料理屋)を一人で経営していたので、家庭の料理まで手が回らないことも多く、家族は市販のお弁当や外食中心の食生活だったのです。
真意を確かめるため、私は某有名飲料メーカーに単身乗り込みました。
「○○という成分は、体にどんな作用を及ぼすのですか?」
「○○は有害成分のようですが、人体への影響はいかほどのものですか?」
など、担当者を質問攻めにしたところ、最後はつまみ出される始末・・・
「気が付かないうちに、現代人の食生活は壊れている」
そう強く感じた私は、栄養士になって正しい情報を伝えられる人になろうと、この時、決心しました。
望んだ職場での納得出来ない仕事

大学卒業後、念願叶って某大手食品メーカーで栄養士としての職を得た私の担当は、コンビニに向けた営業と食製品の開発でした。
ご存じの通り、スーパーやコンビニで扱う商品は、腐らせないことに細心の注意を払う必要があります。仕事に没頭する余り、いつしかそんな企業側の都合に染まりきっていることに気が付かなくなっていた私は、
「だめだめ、もっと添加物の量を増やして!」
「それじゃ足りないわ、今の二倍は腐らない期間を延ばさなきゃ!」
そんな言葉を日常的に使いながら、仕事をしている自分がいました。食品添加物の害の怖さを知ることで目指した栄養士の仕事だったのに、いつの間にか、その添加物を世間にばらまく仕事をしている・・・
我に返って冷静になった私は、ほどなく退職し、人生をリセットすることにしました。次に選んだ仕事は「青年海外協力隊」での栄養士隊員。赴任先は、治安の悪さと情報の少なさが不安な「グァテマラ」でした。
泥水で煎れたコーヒーで熱烈歓迎

メキシコに隣接する中米の国「グァテマラ」。
私が二年間働いた任地は、首都グァテマラから高速バスで4時間移動し、そこからヒッチハイクしたトラックで山道を1時間走り、さらに車が入れない細い山道を2~3時間歩いた先のへき地にある、ケクチ族の村でした。
マヤの先住民族である村人達に迎えられ、ウエルカムドリンクとして出していただいたのが、ドラム缶に溜めた、虫が泳いでいる水で煎れたコーヒーでした。虫の存在が気になる私に、現地の方が優しくかけてくれた言葉は、
「虫は食べても大丈夫だよ♥」

現地で教わった本当に豊かな食生活

現地で気付いたこと・・・それは、欧米文化が浸透した都市部の人々の食事は、肉中心で野菜が極端に少なく、砂糖の取りすぎと運動不足も手伝って成人病に悩む人が多い状況。
それに比べ、ケクチ族の食生活は極めて質素。主食のトウモロコシと、副食の豆と唐辛子。これは日本の伝統食、お米と大豆と漬け物によく似ています。よく考えたら、これにビタミンや酵素が取れる野菜を付け加えると、ある意味理想的な食事に成り得ます。
現代の日本の豊富すぎる献立や、1日に多くの食品を取らなければいけないという栄養学の常識が、当初は現地の食文化を否定したくなることもありましたが、村のおばさんたちと話す内に、それらの考えはとんでもない思い上がりだということが徐々に理解できました。
日本で生まれ育った私の価値観だけでは計り知れない、貧しくも豊かな生活がそこにあったのです。またそれは、かつての日本の食文化の原点でもあることに気が付いたのです。

心から祈った「お母さん、生きて!」

グァテマラから貴重な経験と気づきを持ち帰った私は、帰国後にそれらを活かして、オレンジページの執筆や、特別養護老人ホーム、保健センターなどで栄養士として働き、充実した日々を送っていました。
その間、結婚・出産・自宅兼カフェの建設と、夢だったことを一つずつ実現。そんな平穏な日々を、またもや一本の電話が引き裂きました。
「私、明日から入院するから・・・」電話の主は母からでした。
主治医の診断によると、母の体は胃・肝臓・リンパ・卵巣・子宮が癌に冒されており、すでに末期状態・・・
直ぐに愛知に飛んで帰った私は、衰弱した母の手を握り、一生懸命祈りました。
「お母さん、生きて!」
自由奔放で放任主義の母を恨んだ時期もありましたが、それでも母の存在は、誰よりも私を信じてくれる人であり、誰よりも私が愛している人です。
「ありがとう・・・」弱々しく手を振って、千葉に帰る私をベットから見送ってくれた母の年老いた笑顔を脳裏に刻み、私は泣きながら心に誓いました。
「今まで何度も助けてくれた母を、今度は私が助ける番だ!」
母の命を救える食品を探して・・・

長きに渡る抗がん剤治療と薬漬けの生活で、副作用と戦い極端に体力を落としていた母の体を、自然食品と自然治癒力だけで蘇らせたい・・・
そのために私が目を付けた成分が「酵素」です。新陳代謝を活性化させる酵素の力は、食品メーカー時代や、グァテマラでも注目していた成分です。
そんなおり、発酵させることで酵素成分の量を100倍にもできるという発酵玄米ごはんの存在を知りました。それが「長岡式酵素玄米ごはん」です。
「これだ!正にこれが私が探し求めていた自然健康食品だ!」
と、確信した私は、すぐに「長岡式酵素玄米ごはん」とお漬け物を母に食べさせました。
当時はほとんど何も口を通さなくなっていた母ですが
「おいしい。これなら食べられるよ。ありがとう。」
ひとまず安心した私でしたが、この後、想像以上の酵素玄米ごはんの奇跡の力を目の当たりにすることになったのです。
医者も首をひねる、母の急速な回復ぶり

「長岡式酵素玄米ごはん」を食べ始めた母に、最初に変化が現れたのは便でした。
それまで極端なまでの便秘に悩まされていたにも関わらず、タール状の便が一週間続き、その後は胃腸が正常化して徐々に体力も戻り始めました。
さらに主治医を驚かせたのは血液検査です。通常、抗がん剤治療を受けた血液は白血球の数が減って、からだの防御反応が低下し、病原体に感染しやすくなるのですが、母の血液はサラサラで健康そのものでした。
また肝臓の癌の影響で、腹水が溜まってパンパンに腫れ上がっていたお腹も元に戻り、食欲も回復しました。
同じ病棟に入院していた、母と同じ年頃の癌患者が次々と命を落としている最中、母だけがどんどん元気になり、今では抗がん剤治療も薬も全てストップし、自然治療のみで、自宅で普通に生活するまでに回復しています。
医者はおろか、「長岡式酵素玄米ごはん」を母に勧めた私自身が、その効果の高さにただただ驚くばかりですが、とにかく間に合って良かったというのが本音です。
病気と食生活の関係性

入院前の母の食生活はひどい状態でした。居酒屋を経営していた事情もあり、毎日の飲酒、極端に少ない野菜の摂取、お客さんの付き合いで行く夜中の寿司やラーメン等、不規則極まりない食生活が、母の体を徐々に弱らせていたことは、容易に想像できます。
更に驚いた事に、手術を終えて入院していた母は、担当医から「何でも食べていい」と言われていたようで、実際に病院食として胃に負担がかかるようなものも平気で出されていたようです。
危機感を感じた私は、長年の栄養士としての経験から得た、食生活と病気の関係性を、母に何度もなんども説明し、徐々に食事療法に変えていくことに成功しました。
平均寿命が世界一長いと言われている日本ですが、お年寄りの寝たきりの平均期間は約7年という統計が出ています。
私の母も私自身も、いつかは必ず寿命がきますが、できることならそれまでは元気に楽しく暮らしたい。そのためには大自然の力と、人間が元来持っている自然治癒力を高めるための、正しい食生活が欠かせません。
だから私は母にずっと「長岡式酵素玄米ごはん」を食べてもらおうと思っていますし、我が家のご飯も「長岡式酵素玄米ごはん」にすべて切り替え、カフェのメニューとして近所の奥様に振る舞ったり、通信販売でお分けする仕事もスタートさせました。
これからも母に対する感謝の気持ちを大切にしつつ、その母を救ってくれた「長岡式酵素玄米ごはん」を必要としている方々に、その素晴らしさを伝えることを私の一生の仕事とし、人様のお役に立てる人生を歩んでいきたいと考えています。


追伸:
皆さんにお伝えするのが遅くなってしまったのですが自宅療養からホスピスに入院していた母が8月30日に旅立ちました。
67歳でした。
母は亡くなる最後の夜まで酵素玄米を食べてくれていました。そのせいか、内臓の機能は衰えておらず、お風呂に入れないのに、体臭や口臭もなく、看護婦さんも驚いていました。
しかし、元々弱かった心臓に負担がかかり、最後は眠るようにいきました。
末期と告知を受けて2年半母は本当に頑張り、私達姉妹にいろんな大切なことを教え続けてくれました。お葬式が終わってしばらくたちますが、まだ母が生きて名古屋にいるような気がします。
母のためにたくさんの方が応援してくださり、枇杷の葉を送ってくださったり、お祈りしてくださり、本当にありがとうございました。
母のことはまた折に触れ、書いていきたいと思います。
母の強さを見習ってしなやかに、そして自分らしく、生きていこう。皆様のお役にたっていこうと思います。
そして、毎日心を込めて母の病気が治るよう一身に祈るように炊いていた初心に戻って、一生懸命酵素玄米を炊こうと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。